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  • 執筆者の写真新住職

華葩カード(築地本願寺)を送っていただきました

いろいろと立て込んでおり、更新が滞りました。

すみません(イイワケ)。


先日、親しくさせていただいている広島のお寺さんから、東京にご用があったということで、築地本願寺にお参りしたときにもらえる華葩(僧侶が法要等の時にお浄土に咲く花びらに見立てて散華する紙片)カードをたくさん送っていただきました。

いつも、気にかけていただき、本当に申し訳なく、ありがたく思います。


といいながら、実は、今回は、無理をお願いして、「たくさん送っていただけませんか」とわがままを言ってしまいました。

・・・というのも、

今月の参拝記念華葩カードには、

(親鸞聖人のお言葉に好きな順序をつけてしまうのは大変失礼なことと分かった上で、それでも)

自分が元気がないときや後悔してしまっているときに、

何度も励まされ、力をいただき、自分の支えとなっている「正信念仏偈」の一文が取り上げられていたからです。


その一文が、このお言葉。

右上のカード。

「大悲無倦常照我」。

ほぼ同じ意味の表現を親鸞聖人はご和讃などいくつかのご文で用いられています。

「大悲はものうきことなくて、常に我が身を照らしたまうなり」などと読むのでしょうか。


華葩カードの裏面には、このように書かれています。

「お墓やお仏壇の前で手を合わせる時、亡き人に語りかけることがあるでしょう。

亡き人は、やさしくじっと聴いてくれている気がします。

亡き人は『仏』となられて私のことを案じ、阿弥陀如来とともに私たちに寄り添ってくださっています。

いつでも、どこにいても、ご一緒くださっているのです。」と。


約60兆個の細胞(=細胞一つひとつがいのち)の集合体であるこの体を預かった私という存在は、その船長として体をまもるために(?)、自分中心的な見方や考え方で物事を捉え判断しがちですが、この私という存在は、過去-現在-未来のすべてのいのちのつながりの中で生かされ、また、生きる力をいただいて、日々を送らせていただいています。

一人で生きようと思ったら、なかなかしんどいことも多いし、「なんでこうなんだ」と腹も立つ。

でも、昔から一人ではなかったし今でも支え合いの中で生かされていると感じさせていただくと、少しだけ肩の力を抜いて楽になるかもしれません。


わたしは、どのようなときも一人ではなかったんだ、、、

という世界観は、阿弥陀さまのお慈悲とお救いを喜び念仏の中に生きていく浄土真宗の特徴でもあり、私たちがいただく、とても大きな贈り物だと味わわさせていただいています。


華葩カードは、「ご門徒や地域のみなさんにも」と多めに送っていただきました(ありがとうございます)。

ご希望の方にはお分けいたしますので、どうぞお気軽にお申し出ください。

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