きょう、ポストをあけたら、ご縁のある鳥取県のかたから書類が届いていました。
そして、築地本願寺発行の「TSUKIJI」2月号も入っていました。
このかたは、毎月のように東京に用務でいかれ、その際に、ご縁があって築地本願寺にしばしばお参りされるようになりました。たいへんすばらしく尊いご縁です。さらに、しばらく東京に行くことが出来ていない新住職に、前回に続いて築地の冊子を送ってくださいました。たいへん尊いお気持ち、ありがとうございます。
すぐに本堂の図書コーナーに置かせていただきました。
今月は、「鬼と仏教」がテーマ。
「鬼滅の刃」が数年前に流行りましたが、そのことと仏教、浄土真宗の関連についても書かれたりしています。そういえば、関連書籍が本堂にもあったなぁ~。
季節柄、、、「鬼は外~~」と言いながら、自分に降りかかる災難や不都合なことを降り払いたい気持ちにもなりますね。
でも、浄土真宗(仏教)的には、
「鬼は、この私の心の中にある」
ととらえることを大切にします。
物事はすべて原因と結果が繋がって(縁起)、それ自体には意図や価値などの意味はなく、ただ現象として進行しています。例えば、コロナも人間から見ると、どうみても、不都合だし、迷惑だし、恐ろしいし・・・。と思ってしまいます(私も)。ただ、そう思っているのは「自分=我」であって、実際は私が好もうが好むまいが、事象・現象は進行します。
人間関係も、自分の前にある課題も、自分を価値基準の中心に据えて見ていくときに、「いいこと・ひと」にもなるし、時と場合が変われば、きゅうに「いやなこと・ひと」となってしまいます。
浅原才市さんという島根県
で念仏に生きて行かれた有名な方がいらっしゃいます。この方は、哲学者・宗教学者の鈴木大拙さんがその著書の中で取り上げて有名になった方です。
この才市さんは、次のようなエピソードを残しています。
以下、本願寺のサイトから引用しています。
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(鈴木大拙さんを紹介するテレビに才市さんの)肖像画が現れました。肩衣(かたぎぬ)を着け念珠をかけて合掌した小柄な姿、柔和な顔の才市さんです。そしてその頭から2本の角(つの)が生えています。地元の画家が才市さんの姿を描いたところ、才市さんは「これはわしじゃない」と言って、鬼を表す角を描き加えさせたといいます。(中略)。私が阿弥陀さまに出あい、阿弥陀さまのこころをわが身に受け取ったならば、阿弥陀さまの眼(まなこ)に写る私の姿が発見されます。
阿弥陀さまがご覧になっている姿を、才市さんは角の生えた鬼の姿で表したのでした。
なむあみだぶつは よいかがみ 法もみえるぞ 機もみえる あさましあさまし ありがたい あみだのこころ みるかがみ
才市さんは南無阿弥陀仏に出あえたよろこびを、こうして詩にしてたくさん残しました。自分は一皮むけば、本当の姿は鬼。偽りなくそのままを映し出す法の鏡の前に立って知らされる鬼の自覚でした。
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(以上、荒本由未師「泥の中に咲く蓮」、浄土真宗本願寺派ホームページより部分引用。)
↓詳しくはこちらをご覧ください。本文をお読みいただけます。
※法…阿弥陀さまに照らしだされたすくいの真理。
※機…阿弥陀さまに照らし出された凡夫のこの私。
「浅原才一 鬼」と画像検索すると、必ず出てきます。有名なエピソードです。
と、あんなことやこんなことを思い出しました。
長くなってきましたので、このあたりで♪
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